前回の記事の続きです。
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「自分がされたら嫌なこと」を理解する難しさ
「されたら嫌なこと」ではなく「されたら嫌であるべきもの」
前回出てきた「自分がされたら嫌でしょう?相手の気持ちを考えようね」については、
まるで二つの文の意味が同じかのように扱われているという点だけでなく、
「自分がされたら嫌でしょう?」と問いかけの形式を使っていることにも問題があると僕は思っています。
その問いかけをするとき、問いかけをされる側の子どもの感情は関係なく、
大人が判断した「されたら嫌であるべきもの」とか、その大人自身にとっての「されたら嫌なこと」について話しているだけのような気がします。
大人側が正しいと考える感情を、子どもに押し付けているように感じるのです。
知識としての「嫌」
子どもの頃の僕は、「自分がされたら嫌でしょう?」という問いかけをされたとき、「えっそうなの?」と意外に感じました。
きっと、自分の気持ちを大人に決めつけられていることに対して、驚いたのだと思います。
でも、少し驚いたものの、1+1=2でしょう?と同じ感じでさも当たり前のように言ってくるから、僕は”そういうもの”なんだな、と思いました。
実際に自分自身がそれをされたら嫌かどうかを考える前に、
感情とは別に「自分はそれをされたら嫌」である(べき)、という知識を与えられてしまったのです。
それからよく考えた後で、自分は別にそれをされても嫌じゃないけどな、と思っても、
「別に嫌じゃない」と言うと怒られそうな気がするので、
とりあえず角が立たないように、「うん」と言っておこう、と思います。
大人の思う正解を答えておけばいいだろ。
自分が嫌かどうかは関係ない
「自分がされたら嫌でしょう?」と訊かれたときに重要なのは「嫌だと思うべきこと」を把握することなので、自分自身の実際の感情は全く関係ありません。
そのうち、自分の感情を考えなくてもいいことに気づきます。
大人に求められている振る舞いをするためには、自分の感情を考えたって無駄だし、邪魔なだけです。
”嫌であるべきもの”を嫌だと思い込もうと頑張ってみたり、
本当は嫌なことを嫌ではないと感じるように努力したりします。
そうすると、だんだん自分の感情が分からなくなっていきます。
だんだん、嫌だと感じたとしても、嫌だと言えなくなっていきます。
嫌かどうかは、自分じゃなくて大人が決めるので。
自分自身の感情がよく分からなくなる
仮に「自分がされたら嫌なことを人にしてはいけない」を実践するとしたら、
まず本人が「自分がされたら嫌なこと」を理解していることが必要です。
でも、「自分がされたら嫌でしょう?」の問いかけによって、
自分自身が何を嫌だと感じるのかがよく分からなくなっているので、
「自分がされたら嫌なことを人にしてはいけない」をするのはとても難しいのです。
次回に続く
大人に「正しい感情」を押し付けられたら自分の本来の感情を失うよね、という話でした。
次回は、子どもの頃の疑問とその解消方法についてです。
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