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人とのコミュニケーションは難しいものですね。
なんでこんなに難しいんだろうと考えると、細かな理由はたくさんあるんでしょうが、
根本的には「自分と他人は違う人間だから」、なんだと思います。
で、それを考えていた時に、
子どもの時に「自分がされたら嫌なことは人にしちゃダメ」と教わったことを思い出しました。
当時はそうなんだー、と思っていましたが、
大人になって考えてみると、なかなか変な言葉だなあと思います。
「自分がされたら嫌なことを人にしてはいけない」が成立する条件
すべて間違っているとは思わない
前提として、僕は「自分がされたら嫌なことを人にしてはいけない」に至るまでの考え方として想定されるものが、すべて間違っているとは思いません。
きっとこの言葉は、相手を不快にさせないためのものなのでしょう。
相手を不快にさせず、互いに気持ちの良いやり取りをすることは、多くの場面において重要です。
そして、相手を不快にさせない方法は、自分の思考や感情を基準にして考えるのが一番簡単です。
自分がされたら嫌なことに対して、「相手もこれをされたら嫌な可能性がある」という想像力を持てばいいだけだからです。
この「自分がされたら嫌なことは、相手もされたら嫌かもしれない」という考え方は、快適なコミュニケーションを目指すときに必要だと思っています。
自分と他人の「されたら嫌なこと」は違う
しかし、持っておくべき考えとして必要なのはそれだけではありません。
「自分がされたら嫌なことでも、相手にとってはされたら嬉しいことかもしれない」
「自分がされたら嬉しいことは、相手もされたら嬉しいかもしれない」
「自分がされたら嬉しいことでも、相手にとってはされたら嫌なことかもしれない」
といった考えも、同時に持っておくべきだと思います。
相手を不快にさせないことが目的であるなら、
自分と他人は違う人間であるという前提を忘れないことが大切なはずです。
条件が揃うことはほぼ無い
「自分がされたら嫌なことを人にしてはいけない」が成立するのは、
自分がされたら嫌なことと他人がされたら嫌なことが全く同じで、なおかつ、相手に嫌な思いをさせてはいけない理由があるときだけです。
この条件が揃うことは、限りなくゼロに近いと思います。
まず、されたら嫌なことは人によって違うに決まっています。
もちろん似たようなことを嫌がる人がいることは想像できますが、すべての「されたら嫌なこと」が他人と一致することはあるでしょうか。
相手に嫌な思いを「させてはいけない」ことは割とあるかもしれませんが、
よく考えると「させない方がいい」場面である可能性もあります。
また、コミュニケーションの方法として、わざと相手を怒らせるやり方もあるにはあります。
「自分がされたら嫌なことを人にしてはいけない」は、
本来は何通りも考えられる他人の感情の動きやコミュニケーションの方法に対して、様々な可能性を排除した言葉のように思えるのです。
次回に続く
自分と他人は違う人間だし、コミュニケーションの方法は一通りではないのだから、
「自分がされたら嫌なことを人にしてはいけない」は成立しないのでは?という考えをまとめました。
次回は、自分が子どもだったとき、この言葉についてどう考えていたかについてです。
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