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幼少期~大学時代について書くシリーズの第11回です。
前回に続き、大学生時代の話です。
人は多様だと気づく
「女性」にも色んな人がいる
大学で過ごすうちに、女子大に入学している、つまり一定の基準で「女性」とされる人たちにも、色んな人がいることが分かりました。
学生たちを見ていると、好きなものも興味の対象も、人によって全く違いました。
主に国内の色んな場所から学生が集まっていたので、方言など使う言葉が多少違ったり、
美術系の学科がある大学だったからか奇抜なスタイルを好む人が多かったり、
そういったことも、人にはそれぞれ違いがあるんだなと気づくきっかけでした。
人には違いがある
人間はみな同じというわけではない、というのは当たり前のことですが、
大学生になってそれまでと環境が大きく変わって、そんな簡単なことにやっと気づいたのです。
高校までは「周り」と自分の違いにばかり目が行っていて、「周り」の中にも多様性があるということまで考えていませんでしたが、
当時の僕が分からなかっただけで、きっと高校にも色んな人がいたんだろうなとも思いました。
自分のセクシュアリティに気づく
「LGBT」を知る
僕がLGBTQについて知ったのは、大学生のときです。
当時は、「LGBT」や「セクシュアルマイノリティ」と言うことが多かったです。
知ったきっかけは、こちらの記事に書かれています↓
「LGBT」について調べるうちに「FtX」という言葉を見つけて、これだと思いました。
それから「中性」とか「男性でも女性でもない」とか「Xジェンダー」とか「無性」とか、色んな言葉で自分を表現する時期がありました。
特に「中性」と「無性」は意味が違うので、自認が揺れ動いているように見えるかもしれませんが、そういうわけではなく、
当時の自分が知っていた表現の中で、一番自認に近そうなものを使っていただけです。
よりしっくりくる言葉を知るたびに、自分を表現するときに使う言葉を変えていました。
「LGBT」を知ってから10年くらい経ちましたが、今の僕の自認は「ノンバイナリー」です。
僕がノンバイナリーという言葉を知ったのは、2~3年前だと思います。
今はこの表現が、ぴったりではないけれど一番ズレが少ないような気がしています。一言で表すときにはノンバイナリーという言葉を使っています。
安心感を得る
「FtX」という言葉を見つけたときは、
「男性」でも「女性」でもない概念があるんだ!!と驚いたようなほっとしたような気持ちでした。
FtX という言葉とその説明は、僕の中に綺麗にストンと落ちてきて、強い納得感と安心感をもたらしてくれました。
言葉があるということは、その表現に当てはまるセクシュアリティの人が一定数いるということです。自分だけじゃないんだ、ひとりぼっちじゃないんだ、と思いました。
そして自分が何者なのかやっと分かった気がして、視界が開けたような、救われたような気持ちになりました。
それから、僕はセクシュアリティに関しては「周り」と違うかもしれないけれど、
セクシュアリティのみに注目せずひとりの人間として全体を見たとき、人には違いがたくさんあって当然だし、別に違ってもいいんだと思えるようになりました。
「違う」ということは、悪いことでもおかしいことでもなくて、
ただ「違いがある」というだけのことなんだと思えました。
嫌悪感も強くなる
ただ、自分のセクシュアリティを自覚したことによって、それまでなんとなくモヤモヤしていた感情が、違和感や嫌悪感だったんだと分かってしまいました。
かゆいと思って強めに掻いていたところを見たら血が出ていて、それに気づいた瞬間に痛みを感じ始めるように、
セクシュアリティを自覚したら、それまで以上に、女性とされている違和感や自分の身体への嫌悪感は強くなってしまいました。
つづく
次回が最終回です。
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