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回文と感覚と価値観

ねるねるねるねの写真 雑記

今日は12/21、回文の日らしいですね。
回文をいくつか思い浮かべた時、3番目くらいにねるねるねるねを思いつきました。

ねるねるねるねはすごいです。
ねるねるしているだけで、お手軽に科学の実験をできるしおやつも食べられるのです。

僕とねるねるねるね

味覚

昔はねるねるねるねがたぶん大好きでした。面白いし美味しいし。

でも大人になってからは、面白い事に変わりはありませんが、美味しいとは感じなくなってしまいました

単純に味覚や好みが変わったというのは要因の一つだと思います。

子どもの頃苦手だったものが今では好きになっていることもありますし、その逆もあります。
特に甘いものに関しては、甘みの強さや方向性の好みが、子どものころとは変わってきています。

順位

成長するにつれて、ねるねるねるねよりも美味しいと感じるものをたくさん知ってしまいました。

すると、食べ物に対する「美味しい」のハードルが上がり、相対的に自分の中でのねるねるねるねの美味しさの順位・価値が下がってしまいました。

知ることで、認識の幅や世界が広がります。
しかし、「全部同じくらい良い」「全部一番美味しい」のままならいいのに、勝手に比較してしまう。
それまでは「美味しい(好き)」「美味しくない(好きではない)」と二元的に判断していたのが、グレーゾーン的なものがたくさん出てくるようになり、整理するために順位をつけて判断してしまう。

ねるねるねるねは自分の中でもう上位のほうにはいません。だから美味しいものではないと思い込んでいるのかもしれません。
人間は残酷です。食べ物に対しても過去の自分に対しても。

僕と味覚と価値観

自覚

僕は離乳食ではナスが食べられたそうですが、物心ついた時からナスが食べられません。
ナスであると全く自覚していない離乳食の頃は、きっと何も考えずに食っていたのです。

でも、気づいたらなぜかナスであるというだけで嫌厭していました。食わず嫌いもいいところです。
なぜナスが嫌なのかは自分でもよく分からず、不思議でしょうがありません。ただ味や食感の噂を聞く限り、苦手そうな感じがしています。

それが何だか分からずに食べていれば美味しかったのに、その正体が分かった途端、つまり自覚した途端に不味くなるとか、自覚した途端に痛くなる、嫌になるという現象に似ている気がします。

そういう現象って心理学的に名前がありそうですね。ちょっと調べただけだとよく分かりませんでしたが、気になります。

思い込み

生きる中で様々な物を食べていると、それまでの経験から、食べたことのないものに対して、きっとこれは自分好みだろう、これは苦手だろう、と一度考えてからになってしまいがちです。

これまでの人生で食べてきたものに対する絶対的な安心感と、未知の食べ物に対する恐怖が入り混じるのです。

実際、予想は割と当たっていることが多いですが、その経験からくる思い込みや偏見のようなものは、苦手そうなものを食べないという選択につながってしまうことがあります。

もちろん思ったよりも劇的に美味しかったという場合もあるはずなのに、その可能性を自分で潰してしまうのは良くないなと反省しています。

慣れ

子どものころ、サラダにかけるドレッシングがとても苦手でした。

当時は野菜に味をつけずにそのまま、または塩だけをかけて食べていました。
ドレッシングに含まれているお酢の味が苦手だったんだと思います。今よりもかなり味覚が敏感でした。

しかし、コンビニのサラダにはご丁寧にドレッシングが付いていたし、家族以外と外食に行くとドレッシングをかけないのは変だという雰囲気を周囲から感じたので、外ではかけるようにしていました。

すると、最初は我慢して食べていたのが、だんだん慣れてしまい、今ではドレッシングを美味しく楽しんでいます。

逆にドレッシングをかけないと味が薄いと感じて美味しく食べられなくなってしまった…
ドレッシング有りでも無しでも、楽しめる人でありたかったです…

まとめ

生きる中で色々なことを知ったり、何かに気づいたりすることで、感じ方も変わっていくと思います。

価値観や感性が変わる事自体は悪いことではないですが、
美味しいと感じるもの、良いと感じるものが少ししかないのは、豊かではないと思います。

幅広く、多くのものを美味しいと思って生きていたい。
その方が豊かに生きられます。

食べ物も含め、いろんなもの、いろんなことに対して、それぞれの良さを見つける価値観を持ちながら生きていきたいですね。

かずき

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