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【幼少期~大学時代(ノンバイナリー)】⑩大学生1/3

幼少期~大学時代

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幼少期~大学時代について書くシリーズの第10回。
大学生になってからの話です。

大学生になってLGBTQについて知る。自分が何者なのか分かった気がしてすっきり。
でも自覚した分、女性とされている違和感や自分の身体への嫌悪感は強くなった。

環境の変化

「周り」に合わせる必要が無くなった

大学に入ってみたら、「周りに合わせる」をしなくて良くなりました。

高校までは、同じ制服を着て、同じことを勉強して、集団で同じような行動をする生活をしていたので、なんとなく均された「周り」という概念がありました。

でも大学では、誰もが私服だし、授業の履修は自由なものが多いし、基本的に集団行動はしません。
それぞれの個人がバラバラに行動していて、一括りにできる「周り」は無かったのです。

自分の意見を言って良い場所だった

また、僕が通った大学は少人数の授業が多く、嫌でも自分の意見を言わなければならない場面が多くありました。
それまでの経験から、自分の意見を言ったら否定されるのではないかと思っていましたが、そんなことはありませんでした。

学問の場だからなのか、そこにいた人たちの人間性なのか、その両方なのかははっきり分かりませんが、
意見が違ったとしても否定されたり責められたりすることはなく、そうなんですね、私は違う意見を持っていますよ、と意見を交わし合うし、
何か間違ったことを言っても貶されることはなく、こういう理由でそれは違いますよ、と説明をしてもらえました。

それまで自分の意見を持たないようにしていた僕は、
自分が何をどう思っているのかを必死に考えるようになり、意見を言えるようにもなりました。
この環境のおかげで、自分の感情と思考を取り戻せたような気がしました。

女子大という空間

僕は女子大に行って良かったと思っています。

イメージしていた女子大とは違った

入学する前まで、女子大には「女性らしさ」の塊みたいな人たちがたくさんいるのではないかと思っていました。
髪が長くて、スカートを履いて、いつも綺麗にメイクをしているような人たちが。

けれど通い始めてから、それはものすごく大きな勘違いで、偏見だったと気づきました。

みんな人間として過ごしていた

大学では、髪型も服装もメイクも、世間で言う「女性らしさ」に当てはまろうとそうでなかろうと、それぞれの人がしたいようにしていました。

学生たちは、「女性」としてではなく、「人間」として過ごしていたのです。

自分も人間として存在できた

女子大という空間では、「男性」に対しての「女性」という概念は必要ありません。
つまり社会に押し付けられるような「女性らしさ」は不要なのです。
大学では、校則や集団生活から解放された、自由な個人を見ることができました。

そこでは僕も「女性」ではなく「人間」でいられました。
性別という属性ではなく個人が大切にされる空間は、とても居心地が良かったです。
男女分けをされないので、「女性」であると意識させられる場面が極端に減ったことにも、快適さを感じました。

つづく

次回は、LGBTQについて知り、自分のセクシュアリティに気づいたときの話です。

つづきはこちら↓

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