前の記事はこちら↓
僕は子どもの頃、良い子でいなければいけないと思っていました。
ここでいう良い子というのは、大人が求める理想の子どもという意味です。
学校という場
常に監視下に置かれる
学校というのは特殊な場所です。
様々な場面において、自分の行動や能力に点数がつけられたり評価をされたりします。
常に監視されているのです。
定められている校則を守ることが正しいとされ、そこから外れると評価が落ち、成績が落ちます。
そして、成績が落ちると、その後の人生の選択肢を大人によって減らされることもあります。
不可解な校則から学ぶこと
学校の校則には、どのくらい意味があるのでしょうか。
守るべきものもあるでしょうが、周囲の大人から繰り返ししつこくチェックされて守らされていたのは、校則の意味に疑問を持たざるを得ないものばかりでした。
みんな同じ制服で、持ち物も指定されて、髪型も制限されます。
そして、それを破るとただ叱責されます。
その際、校則を破ってはいけない合理的な理由が説明されることは、基本的にはありません。
そうした環境から子どもが学ぶのは、規則やルールが定められている理由でも、破ってはいけない理由でもなく、「非合理的なルールだとしても守ることが正しく、そうでなければ悪だとされる」という認識です。
“同じ”という正しさ
道徳の授業では、ある一つの考えのみを正しいものとして教えられ、その授業で周囲と違う考えを発表すると非難されます。
みんなと同じように何かができないとみんなの前で大人に怒られて、みんなと違うことをするとおかしいと言われます。
子どもは、「周囲と同じことが正しく、そうでない人間は非難されるべきである」と学び、次第に多数派ではない他者を排除するようになります。
これは学校だけでなく家庭や地域のコミュニティにおいても言えることですが、
大人が子どもに教えるべきなのは、
・違いがあって当たり前であること
・それぞれの考えや意見を尊重しながら周囲と関わること
・苦手な人間とは適切な距離を置いて自分を守ること
・大人が言うことが全て正しいわけではないこと
などだと思います。
学校と自己防衛
良い子でなければならなかった理由
僕は学校生活その他諸々子ども時代の経験の中で、正しい良い子でなければならない、と強く思っていました。
そうでなければならなかった、というよりは、そうでありたかった、のほうが近いかもしれません。
意味のわからない校則でも守らないと周囲に否定されること、周りと少しでも違うことをすると排除される可能性があることを知っていたので、
攻撃されるのを防ぐために、自分の意見は全て飲み込んで周囲に合わせていたのです。
周囲の言うことに適当に同調して、家庭科の裁縫セットは周りと同じような柄を選んで、休み時間には行きたくもないのに一緒にトイレに行っていました。
自分が自分として存在していられる瞬間はほとんど無かったのではないかと思います。
学校に行っていた理由
僕は学校という空間があまり好きではありませんでした。行かなくてもいいのなら、行きたくありませんでした。
でも、周囲の大人たちは学校に行くことが正しさであるという認識を強く押し付けてきます。直接言われなくても、大人を観察していればそのくらい分かります。
だから、良い子を演じるという手段を使って自己防衛をするために、学校に行くしかありませんでした。
それ以外に自分を守る方法を思いつかなかったのです。
おわりに
今の自分なら、理不尽な状況に対して意見を言うことができます。
その校則にはどんな意味があるんですか、人と違うことは悪なんですか、つらい思いをして学校に行くべき合理的な理由はなんですか、なんで説明できないことを生徒に教えているんですか?
もちろん、学校の先生がとてつもなく忙しくて大変だということは分かっています。
労働環境の改善は必要ですが、その前にそもそも学校教育のシステム自体を見直した方が良いのではなかろうかと思うのです。
次の記事はこちら↓